書籍『南の探検』はたして探検は冒険と違うのか、同じなのか

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【推し企画】山歩みちライターと編集部が、自分の好きな登山に関する「推し」映画や本などについて個人的な想いのみで語っていきます!

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『南の探検』あらすじ

戦国武将の家柄に生まれ、鳥学者として国際的に活躍した著者が、戦前に出版した唯一の一般向け読み物。アフリカ、中南米などに探検隊を率い、新種の発見、日本生物地理学会の創設、ドードー研究などで知られるコスモポリタンが、フィリピンのアポ山登頂に成功するまで。欧米の生物学者との交流も貴重な記録である。(本書裏表紙より)

こんな日本人がいた! 自らの探検隊を率いて、アフリカ、南米、東南アジアに分け入った破天荒な生物学者・蜂須賀正氏侯爵による戦前のフィリピン・アポ山登頂記の復刻。

平凡社ホームページ

謎多き未開の地だったフィリピン

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著者がフィリピンを探検したのは1928年から1929年のことである。1919年に第一次大戦が終結し、自家用車やラジオ、洗濯機、冷蔵庫などの家電製品が普及し始めており、人々の生活が現代の生活にいちだんと近くなった時代であった。

その頃のフィリピンはアメリカの植民地であったが、謎に満ちた国だった。島の数は数千とあり、民族の種類も何百とある。その中には、洋服を着ずに腰布一枚を付け、狩猟をして生活している人々もいた。首狩りの風習もまだ残っており、中には尾のある人間もいると言われていた。

このような「未開の地」というイメージが、欧米人や日本人にとってはっきりと残っていたフィリピンを、著者は生物学的に調査するべき重要な地として以下のように語っている。

インドの動物がマレー半島から島々を下ってボルネオまで来ており、オーストラリアの動物がニューギニアを通って北上していますが、その両者の混合しているところで、それが南北の直通路から少し外れた地形になっている場所がフィリピン群島です。この群島の生物調査を完成すれば、全太平洋はもとより、アジア大陸とオーストラリアを通過して南米に繋がる大きな動物相の連絡関係のドアを押し開けたことになると思います。

それをふまえ、フィリピン探検によって「かのダーウィンやウォーレスにも勝るような生物界の真理を発見できるような気がしてならない」としている。

探検と冒険は違うものなのか

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この本を読み終えた時、著者の探検は「探検らしい探検である」と私は思い、著者のような探検を行いたいと思った。

私は大学で探検部に所属しており、探検を行うことを目的として活動を行っている。しかし、私と著者の間には何か違いがあると感じた。それは、民族学者であり人類学者であった梅棹忠夫氏が論じている「客観主義的探検」と「主観主義的探検」の違いと同じものであると思った。

客観主義的探検は、客観的・科学的な発見を第一義的に目指した探検である。一方、主観主義的探検は、
“ 探し検べる ” 行為自体を目的とし、客観的に科学に寄与するよりも主観的な人間存在の証をたてることを求めた探検である。現在の一般的な用法においては、前者が「探検」であり、後者は「冒険」と呼ばれるものであるだろう。

著者は生物について豊富な知識を持った鳥類学者であり、彼にとってのフィリピン探検は、生物学的研究のための「探検」であった。つまり彼は客観主義的探検者である。

私も著者のように客観的・科学的発見をする「探検」をしたいと思っている。しかし、その根本にある欲求は、そのような「探検」を行うことによって、今までに味わったことのない強烈な体験をしたいという「冒険」的な欲求なのである。

探検は冒険を内包する

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著者は科学的成果を求める「探検」をしていたが、同時に探検の過程を、主観的な人間存在としての証を打ち立てる「冒険」としても捉えていたと思う。それは、彼が探検の対象であるフィリピンの生物や人間に対して、多大な主観的興味を抱いており、それらと関わることを彼自身が無上の喜びと感じているように思えたからだ。歴史上行われてきた探検もそうであろうと私は思う。そうでなければ、多大な時間と労力を必要とする行為である探検はできない。

そう考えると、「探検」は常に「冒険」を内包していることになる。探検の冒険的部分に惹かれて探検を志すことは、決して不純な志ではないのである。探検を志す根本的理由は、主観的興味に基づく冒険的欲求であるという点においては、著者と私は共通していると考えられる。

では、最初に感じた著者と私の違いはどこにあるのだろうか。それは、主観的興味の明確な対象の有無であると思う。著者の興味の対象は、まだ見ぬ鳥類とそれを取り囲む自然にある。一方、私の興味は「未知なる対象を自分の手で解明する」という、極めて曖昧な探検的行為自体へのロマンである。

探検における知識と記録技術

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本書を読んで、著者の探検は、豊富な知識と精確な記録技術によって成り立っていると感じた。著者は鳥類のみならず、生物学全般についての豊富な知識を持っている。さらに、写真とスケッチと文章、さらに標本剥製によって、現地の様子を詳細に記録している。

知識があるからこそ、初めて訪れる場所においても多くの事を発見することができる。さらに、それを詳細に記録することで科学的根拠として、著者の発見を客観的で学術的な成果にしている。その知識の習得と記録の整理にかけた時間は、探検を行っていた時間よりも圧倒的に長い。

しかも、探検をしている時間の大部分を占めるのは、ひたすらに密林の中を歩きながら、詳細に記録をとるという非常に地味な行為である。映画『インディ・ジョーンズ』シリーズのように、軍隊と争ったり、巨大な岩が転がってきたりした末に、莫大な財宝を手に入れるようなことはない。しかし、その地味な過程がなければ、科学的成果は得られない。これらの豊富な知識、正確な記録技術、地味な作業を著者に可能にしていたのは、著者の鳥類への明確な主観的興味であるだろう。

主観的興味が曖昧な私の探検は、著者に比べ「探検」としては大変お粗末なものである。調査する対象についての知識は非常に浅く、それを精確に記録する技術も持たないまま調査に行き、ほんのわずかな学問的成果を運良くあげることができたことを喜んでいた。

しかし、知識の浅い自分にはその成果の学術的価値すら充分に理解できていない。探検を志す者として、私には知識と記録技術が大いに欠けているのである。そして、それは私自身の興味の曖昧さに由来しているのである。

まとめ

著者のフィリピン探検は、学術的成果を残した「探検」であると同時に、主観的興味に基づく「冒険」でもあった。その探検は、著者が幼少期から積み上げて来た生物学に対する深い知識と、正確な記録技術、そしてなにより探検の対象である、フィリピンの自然への主観的な深い興味によって成り立ったものであったと思われる。

本書を読んだことで、私の探検に対する興味の曖昧さが浮き彫りになった。探検は冒険を内包しているといえるが、まだその冒険の域を出ることができていない。いつか本当の探検らしい探検ができるようになりたいと思っている。

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この記事を書いたひと
辻 拓朗

山と探検を好む大学生ライター。夏はバリエーションルートの尾根歩きと沢登り、冬は雪山へ。主に丹沢、奥多摩、奥秩父、南アルプスあたりで活動中。

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