マッシャー 本多有香さん|世界一過酷なレースに挑み続ける理由

本多有香さん 山歩のひと

フリーペーパー『山歩みち』2012年春 007号掲載

※この記事はフリーペーパー『山歩みち』に掲載されたものに一部加筆、修正を加えたものです。基本的には取材時の内容となっておりますので予めご了承ください。

Profile ※2012年時点

ほんだ・ゆか 新潟県出身。1998年にカナダに渡り、マッシャーのグラント・ベック氏に師事、犬ぞりを学ぶ。2012年、ユーコンクエストで日本人として2人目、日本人女性として初の完走を果たした。

アラスカからカナダ極北へ。1600㎞もの原野をひとり犬ぞりで走る女性がいる。アスリートでも冒険家でもなく、ただ極北の自然が好きだから。まっすぐで、けっして折れない。本多有香とは、そういう人だ。


極北の大自然を大好きな犬たちと旅する。楽しくて、楽しくて、苦しさも忘れるほど─。

カナダ・ユーコン準洲ホワイトホース。極北の小さな街でその日、200人以上の人々が彼女たちを待っていた。日本人マッシャー(犬ぞり師)本多有香と7頭の犬たち。12日前にアラスカから走り出した彼女たちが、山々を越え、国境さえ越えて、ホームタウンに戻りつつあった。

世界一過酷といわれる犬ぞりレース「ユーコンクエスト」。アラスカのフェアバンクスからカナダのホワイトホースまで、約1600㎞の原野を走り抜けるレースで、本多有香はこの日、日本人女性初の完走を果たした。「レース中ずっと、実の母のように自分を支えてくれた人の写真を持って走っていました。私、ついにやったよ。そう伝えたい」

大歓声のなかゴールした有香さんが小さな写真を空に掲げた。8年以上も暮らし、厳しい下積み時代を過ごしたフェアバンクスで、多くの日本人から〝母〟と慕われた人の遺影だった。「わたしには犬ぞりしかない」。その思いはほとんどの人にとっては無謀で、理解不能だったに違いない。でも当時大学生だった有香さんにとって、それは確信以外のなにものでもなかった。

本多有香さん

大学3年のとき、オーロラが見たくてカナダのイエローナイフを旅した。そこで偶然、地元の小さな犬ぞりレースを見た。「犬ぞりって大きなハスキーが走ると思ってたんですけど、その犬たちはすごく細くて小柄で。でも一生懸命そりを引く姿が力強くて、健気だった。オーロラよりもずっと心に残ったんです」

大学を卒業しても犬ぞりへの熱は冷めず、社会人3年目の冬に再度イエローナイフへ渡った。今度は旅行者としてではなく、犬ぞり修行のために。彼女を受け入れてくれたのは、4度のカナダチャンピオンの経験を持つ、一流のマッシャーだった。「犬ぞりレースに出られるなら何でもしますからってメールを出して、そしたらなんとか迎えてはもらえたんですけど…」

アシスタントとしての下積み生活は予想を越える過酷さだった。餌やり、掃除、犬のトレーニング…。眠る暇もない日々のなかでも、有香さんは犬の扱い方やトレーニング法を学んだ。さまざまなマッシャーのアシスタントをしながら経験を積み、2006年、夢だったユーコンクエストに出場した。犬ぞりを始めて9年目のことだった。「つくづく不運だと思う」と、自己分析するとおり、有香さんのユーコンクエストは不運の連続だった。1度目は猛吹雪のためヘリコプターで救出され棄権。2度目はレース中に犬を亡くす不慮の事故に見舞われ、3度目は犬の不調によりゴール目前で棄権を余儀なくされた。

ユーコンクエストの主なルートは、凍結したユーコン川の上
ユーコンクエストの主なルートは、凍結したユーコン川の上

有香さんがカナダの永住権を取得したと聞いたのは、彼女が3度目の挫折を経験した翌年だった。それまでは日本とアラスカを行ったり来たりしていたが、ホワイトホースをベースに犬たちと暮らしていこうと決めた。「狭苦しいところで恥ずかしいんだけど…」と招いてくれた小さなキャビンは、森を整地して自らの手で建てた彼女らしい家で、小屋の外では育てはじめたばかりの子犬たちが遊んでいた。

ああ、この人はこの土地に根を下ろし、ひとりのマッシャーとして生きていくのだな、とそのとき思った。だれもが無謀だと言った生き方を、彼女は堂々と脇目もふらず歩いてきたのだ。

世界一過酷なレースに挑み続ける理由を尋ねたとき、彼女はひとこと「楽しいから」と答えた。「楽しそうに見えませんか?」と逆に驚きつつ。「だれもいない原野を、犬とキャンプしながら旅する。そりゃあもう信じられない景色があるわけで。すごいオーロラが舞うときもあるし、そんな風景のなかにいられるなんて、楽しくないわけないじゃないですか」

睡眠時間が限られるレース中も、彼女の姿は常に犬の傍らにあった
睡眠時間が限られるレース中も、彼女の姿は常に犬の傍らにあった

見たこともないほど美しい風景やかけがえのない人との出会い。短い一生のなかで私はあとどれくらい、そんなものに出会えるだろう。彼女の話を聞きながら、そんなことを考えていた。何かをただ見てみたいと思う純粋な気持ちを、いつまで持ち続けていられるだろうか、とも。

それでも彼女を見ていると、こうも思うのだ。たとえだれもが無謀だと言っても、なにかを見たい、やってみたい。そう強く思うことができたなら、必ず出会える。世界は広くて平等で、無数のすばらしいものがある。その思いを持ち続ける限り、それは変わらずそこにあり続け、永遠に失われることはない。

本多有香さん

取材・構成・文=小林百合子

写真=佐藤日出夫

協力=Yoshihiro Nishiyama