書籍『死に山 -世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相-』謎は探検によって解明される

死に山 遭難イメージ ちょっと休憩
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【推し企画】山歩みちライターと編集部が、自分の好きな登山に関する「推し」映画や本などについて個人的な想いのみで語っていきます!

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『死に山』あらすじ

1959年、冷戦下のソ連・ウラル山脈で起きた遭難事故。登山チーム9名はテントから1キロ半ほども離れた場所で、この世のものとは思えない凄惨な死に様で発見された。氷点下の中で衣服をろくに着けておらず、全員が靴を履いていない。3人は頭蓋骨折などの重傷、女性メンバーの一人は舌を喪失。遺体の着衣からは異常な濃度の放射線が検出された。最終報告書は「未知の不可抗力によって死亡」と語るのみ―。地元住民に「死に山」と名づけられ、事件から50年を経てもなおインターネットを席巻、われわれを翻弄しつづけるこの事件に、アメリカ人ドキュメンタリー映画作家が挑む。彼が到達した驚くべき結末とは…!

引用:Amazon

著者と事件の関係性

死に山 探検イメージ

著者のドニー・アイカーは、ある出来事の事実関係を明らかにし観客の心に響く形でまとめ上げる、ドキュメンタリー映画作家である。彼が関心を持つのは「やむにやまれぬ情熱を抱く人々」であり、そのような人たちの足跡をたどってその人自身が持つ謎を解き明かすことであり、それを仕事にしてきた。

そんな彼がこの事件に出会ったのは2010年のことである。アメリカで映画のプロジェクトを手掛けていた時、その調査の中で全く偶然にこの事件について知ることになった。それからインターネットで調べていくうちに、彼は事件に巻き込まれた若きトレッカーたちに惹かれていった。

彼らは大学で勉強する傍ら、インターネットもGPSもない時代に地図のない地域を探検していた。著者は彼らの探検に一種の純粋さを感じ、共感を覚えたのである。それから彼はネットで得られる資料をすべて読みつくしたものの、それらはどれも事件の真相を語るものではなかった。

彼が本格的にこの事件の真相を探り始めたのは、遭難パーティの唯一の生存者であるユーリ・ユーディンがまだ生きていると知った時だった。「ユーディンはマスコミに滅多に口を開かないが、説得すれば話が聞けるかもしれない」と著者は思った。そこで事件のあった地に赴き、ユーディンや現地の人々の証言を聞き、事件現場を自らの目で確かめることで、事件の真相に迫っていくのである。

探検が謎を解く

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この遭難事件に対する推測をする人間は数多く存在し、様々な説が唱えられた。しかし、これらの人の中で、実際に事件が起こった現場に行った者は一人もいなかったのである。本作の著者ドニー・アイカ―はこの事件を調べるに当たり、一次的な情報を求めた。つまり当時の事件捜査記録、遭難者の近親者、事件現場の環境を自分の目で見て確かめ、結果、彼なりのひとつの答えにたどりついていく。

20世紀初頭、南極点初到達を目指したイギリスのスコット隊の隊員で『世界最悪の旅』を著したチェリーガラードは、「探検とは知的情熱の肉体的表現である」という言葉を残している。著者はこの「探検」を実践したからこそ、この謎を解くことができたのだと私は思う。彼の探検は、一般的にイメージされるような、アマゾンや極地を実際に歩き記録する探検ではない。しかし未知なる対象に対して一次的な情報をその足で収集し、謎を解明することはまさしく探検ではないだろうか。

この探検という手段は最も原始的な調査であるが、最も真相に近づくことができる手段であるだろう。現在においては技術の発達により、現地に足を運ばなくてもインターネットによって視覚的・聴覚的情報やデータを得ることはできる。しかし、人間が実際に足を運び、現地の人間や自然と対峙することで見えてくるものは必ずあるのだ。

一人一台スマートフォンを持つことが当たり前になった現代において、大抵の事はすぐに知ることができるし、なんでも知ることができるように感じる。しかし、それは誰かが現地の様子を切り取って伝えたものであり、そこに書かれていない部分の方が多くあるはずなのだ。だからこの世界から未知が消えることはなく、探検によって謎を解くという行為は今後も行われ続けるだろう。

謎を追う理由は自己満足なのか

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著者は、謎を解明する現地調査の途中に地元のロシア人から次のような質問をされる。

「なぜアメリカ人であるあなたが、あなたが生まれるずっと前に亡くなったロシア人のトレッカーのことを気にするんですか?」

著者は答えに困ってしまう。その後もしばらくこの問いは彼の頭から離れなかったという。

私にも似たような経験がある。私は大学で探検部という組織に属している。探検部はその名の通り探検を行う部であり、その探検のテーマを自分で見つけ、国内・海外問わず様々な所で活動をする。私は中国で仙人伝説となった洞窟の調査を行ったことがあるが、その聞き取り地調査の際に村人に同じような質問をされて困ってしまった。

確かに誰かに頼まれて調査しに来たわけではない。自ら調査したいと思って調査しに来たのだ。ひたすら考えて出た答えは、「誰も解明したことのない未知を自分が解明したい」という自己満足でしかなかった。しかし「自己満足のために調査している」などと村人に言うことはできない。

もしかすると、著者も同じような考えだったのではないか。 遭難事件の遺族からしたら、自己満足のための調査なんて、たまったものではないだろう。だから著者はその質問に答えられず、「自己満足のために事件関係者の傷をえぐるような事をして良いのか」と自問自答していたのだと私は思う。

探検する者と探検される者

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探検を行うにあたり、どうしても避けることのできない問題点がある。それは「探検する者」と「探検される者」とに立場が分かれることである。その両方の立場が存在することで初めて探検は成立するのである。

探検する者がどれだけ探検される者の立場に立って考えようとしても、それは想像でしかない。歴史的にみて、探検が社会に貢献してきたといえるかもしれないが、この時に使われる「社会」とは一般的に「探検する者の社会」である。そのような探検は常に侵略と結びつくと私は思っている。探検が侵略を避けるには、探検される者の立場を尊重し、彼らの社会にも貢献することであると思う。

本書の著者はそれを実践していた。彼は現地で関わった様々な人々から話を聞いていく過程で、遭難した9人やその家族のためにも、事件の謎を解かなくてはと思った。きっと彼は遭難した学生やその遺族、また現地で協力してくれた人々を尊重していたのだ。だからこそ、彼と関わった人達はそれに応えるように、彼を受け入れて情報を提供した。探検する側である彼の、事件に対する真摯な情熱があったからこそ、探検される側がそれを理解・協力し、彼はこの謎を解くことができたのではないだろうか。

まとめ

著者の解が真実かどうかは誰にもわからない。ただ、著者が調査を行う上で通った軌跡は、一本の線のように思える。彼でなければ辿ることができない線だ。そのため本作は、ディアトロフ峠遭難事件を取り巻く人々の物語であると同時に、著者の情熱、行動力、真摯さが、彼をひとつの答えに導いていく物語でもあったと私は思う。またその物語から私は、自らが情熱をもつ「探検」という行為の有用性と、その問題点を知ることができたのだ。

◆『 死に山 -世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相- 』 ドニー・アイガー著 安原和見訳 河出書房新社 2018年

おまけ

2013年公開の『ディアトロフ・インシデント』という映画があるが、これはディアトロフ峠事件をソ連陰謀論で解釈したホラー作品であり、山岳要素もミステリー要素もほとんどない。本著と全く別の作品と考えて見ないと、期待外れの映画になってしまう。注意してほしい。

「推し企画」に参加したい!自分の好きな登山の「推し」について熱く語りたい!という方は、ぜひ編集部までメールにてご連絡ください。お待ちしております。

sanpomichi@field-mt.com

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この記事を書いたひと
辻 拓朗

山と探検を好む大学生ライター。夏はバリエーションルートの尾根歩きと沢登り、冬は雪山へ。主に丹沢、奥多摩、奥秩父、南アルプスあたりで活動中。

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山歩みち