【推し企画】山歩みちライターと編集部が、自分の好きな登山に関する「推し」映画や本などについて個人的な想いのみで語っていきます!
『信念 〜東浦奈良男 1万日連続登山への挑戦』あらすじ
前人未踏の一万日連続登山に挑んだ、毎日登山家・東浦奈良男氏の驚愕の四半世紀にわたるライフヒストリーと、その非凡かつ個性的な人格の全容を、本人への取材、膨大な日記の解読、関係者の証言などをもとに浮き彫りにする。
東浦氏は1984年の定年退職翌日から、なんと28年間にもわたることになる、一万日登山を開始した。この千日回峰行(7年間で1000日)十回分に値する途方もない挑戦は、「毎日連続して登る」というさらに驚異的なスタイルで実践された。
不可能と思える目標を掲げ、雨の日も風の日も登り続け、生きながら神の領域に近づいた驚異的な日々はもとより、行動中に水を飲まない、登山用具は廃品活用のオリジナルなど、一般的な登山の常識を無視した登山スタイルは興味深い。また、過剰ともいえる強靱な意志は、信念なき時代、登山界のみならず、社会一般に対しても強いインパクトを与える刺激的なパフォーマンスともいえる。
東浦氏は、苦行とも思える前代未聞の挑戦を、なぜ、つづけたのか? その謎に迫る渾身のルポ。
山と渓谷社ホームページより
遠くから眺めるばかりの山、本との出会い
最後に山に登ったのはいつだろう。
幼い頃は親に連れられ山菜採りや栗拾い、秋は紅葉を見に出かけたり、学校行事で山登りやキャンプをしたり、その時々で訪れていた山も、社会人になり日常が忙しなくなるとめっきり行かなくなってしまいました。
ふと山や自然が恋しくなり、登山に関する情報サイトやアウトドアの本を手に取ったりしましたが、トレッキングシューズやリュック、機能的な防寒具、はたまた帽子やらなんやらを揃える所からと思うと気持ちは遠のき、さらに調べた登山コースは泊りがけの車で片道数時間。それにまた気持ちは遠のき。思いを巡らせるばかりで私の山登りはなかなか叶いませんでした。
そんな時、本屋で見つけた1冊の本。表紙には厳しい眼差しでこちらを見つめる老爺の姿。目がとまりました。
『 信念 東浦奈良男 一万日連続登山への挑戦 / 吉田智彦 著 』
タイトルの “連続登山” と表紙に写る老爺の出で立ち。その姿はなんと言いますか、私の知る登山者の姿とはかけ離れていました。笠帽子をかぶり肩からは赤いビニールマント、両手にはステッキ2本、タオルを首にかけ、それらはどれも使い込まれた様子です。
ただ力強く表紙に書かれた “信念” の文字と、その老爺の厳しくも優しさも滲んだ眼に惹かれ、店先でパラパラとめくってみたところ、初めの数ページのカラー写真に「これは大変なものを見つけてしまった」と感動からくる不思議な焦りに慌てて購入。すぐ家に帰って急いで読んだのを覚えています。
東浦奈良男氏の山登り
概要だけ読むと、強い思想があって山に登っているのかと思ってしまいますが、実はそうではないのです。
紹介されている東浦氏の日記や言葉からは、山が好きというまっすぐな思いと、頑固ながら探究心旺盛な人間味が強く感じられます。途方もない記録への挑戦を、一体どんな思いで挑んでいたのか。思うばかりでなかなか山へ行けずにいた私にとって、山に向かうことの意味を考えさせられました。
本筋の一万日連続登山というのは驚異的な数字ですが、読むなかで東浦氏から感じたのは表層的な記録や数字ではありませんでした。もっと芯の部分。好きな山へ向かっていくその姿に、山へ登るのに必要なのは道具や時間じゃなかったと気づかされハッとしました。
もちろん向かう山によって必要な物は違いますし、時にはきちんとした技術や知識も必要です。でも私のしたい山登りは、緑や生き物たちを見ることなので仰々しい道具は不要でした。でもなぜか、揃えないと山にいけないと勝手に私のなかのイメージで足踏みしてしまっていたのです。
本書で度々登場する東浦氏の登山具は、山登りを続けるなかで徹底的に研究され自身に合わせて考案・改良されたものばかりです。例えば靴の締め付けを嫌い、後ろの踵部分に少し切り込みを入れたりもしています。自身の向かう山に合わせて道具を選ぶ。これもまた当たり前な話なのかもしれませんが、いい値段のトレッキングシューズを見ていた私にとっては恥ずかしくも教えられた事です。
はたから見ると記録のために山に向かっているようにも聞こえてしまいますが、これもそうではありません。東浦氏の言葉でとても印象深いものがあります。
「数字はあくまで励みです。山が好きだから登っているんです。」
読むのを中断して近くの山へ
東浦氏が山登りに夢中になっている姿が本書では丁寧に書かれており、それに触発され山へ行きたい気持ちがみるみる大きくなっていきました。道具を新調しなくていい。わざわざ遠出しなくていい。今は取り敢えず緑や生き物を見に山へ行こう。
本を半分読んだあたりで私は衝動が抑えきれず、すぐにネットで近くの山を検索。意外にも歩いて1時間弱のところに山と言ってしまっていいのか、小高い山がありました。思いつきと衝動で向かったので、その時は登山用にはあまりに粗末なスニーカーと、ポケットに携帯だけ入れて家を出発。
初めての場所だったのでマップを見ながらやっとの思いで目的の山へ。登り口に着き、ここでやめとこうかなという思いにも少し駆られましたが、もうここまで来たらと意地もあって登ることに。夕暮れ時でほとんど人がおらず、よっこらよっこらとみっともないくらい息を切らしながら、なんとか頂上までたどり着きました。
汗が一気に引くほど強い風が吹いていて、疲れもあり、遠くで日の落ちる様子を長いことボーッと眺めていました。その時に「ああ、これは癖になる」と、どこか人ごとのように思いながら、またよっこらよっこらと下山。
その日から、同じその近所の山へ、3日と空けずに登るようになりました。
山が日常。そこで感じられること
今も仕事が終わった夕方頃、2日に1回くらいのペースでその小高い山を登っています。下りる頃はちょうど夕暮れ時で、ああお腹が空いたと空腹に耐えながら下山し、最近では晩ごはんに白米を1合ほど食べてしまいます。
休みの日は起きてすぐ身支度をしたら、お化粧もそこそこに山登りに。お水と携帯とお財布、それから文庫本を小さいリュックに入れて出発。下山してもお昼にはまだ早い時間で、帰り道にある喫茶店で少し休憩してから帰宅します。そこで本を少し読んで、ページが進むと長居してしまうこともしばしば。空腹に耐えられない時は、朝ごはんと称してケーキやサンドイッチを食べてしまうことも。体に染み込む糖分の感じも堪りません。
日々登っていると、四季の変化を今まで以上に感じるようになりました。先週は美味しそうだったフキノトウが次の週には育ちきっていて、ああもうこれは食べられないなとか。向かう道中に飛び交うツバメの賑やかさに、もう巣作りの時期かとワクワクしたり。夕暮れ時の肌寒さで羽織っていた上着を手に持つようになったり。五感でその移ろいを感じ、寂しさと同時に次の季節の前触れに嬉しくなります。
そして、山はなんと賑やかな場所だろうと感じます。自然という大きなものの中に足を踏み入れると、堪らない高揚感が湧き上がってきます。土に猛々しく根をはる大木。その足元に群生する野花。頭上で声を響かせ合う鳥とその羽音。見上げると黄白色に降り注ぐ日の光。踏みしめる足音と、遠くでかすかに聞こえる葉の擦れる音。何か通った気配にどきりとする心臓。
きれる息に少し口角が上がってしまいます。耳も目も忙しなく、鼻も緑のかおりでいっぱいになり、全身で呼吸する感覚。そしてお腹も空いてきます。
それぞれの山登り、私の山登り
本を読んで、誰もがその人なりの、山との付き合い方と楽しみ方があるのだと気づかされました。それぞれがそれぞれの形で山を好きになる。
相変わらず標高の高い山には登っていません。日々、登る。これが私にとっての山登りとなりました。今までは遠くから思うだけだった山へ、秋には遠出して紅葉を見に出かけたいと考えています。遠くから思うだけだった泊りがけのコース。こういった変化もあって、いつもの山とは違う広い景色を見に行こうと計画することも、今の楽しみのひとつになっています。
次はあの山この山と、そんな事を思いながら。今日か明日も、あの近所の山へ登ります。