本『孤高の人』夢中で読んで涙した、孤独で自由を求めた男の生き方

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【推し企画】山歩みちライターと編集部が、自分の好きな登山に関する「推し」映画や本などについて個人的な想いのみで語っていきます!

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『孤高の人』あらすじ

いかなる場合でも脱出路を計算に入れた周到な計画のもとに単独行動する文太郎が初めてパーティを組んだのは昭和11年の厳冬であった。家庭をもって山行きをやめようとしていた彼は友人の願いを入れるが、無謀な計画にひきずられ、吹雪の北鎌尾根に消息を断つ。日本登山界に不滅の足跡を遺した文太郎の生涯を通じ“なぜ山に登るのか”の問いに鋭く迫った山岳小説屈指の力作である。

引用:amazon

本との出会い

孤高の人
出典:amazon

私がこの本に出会ったのは、本当に偶然としか言いようがありません。勤務する会社の社内報に「おすすめの本」というコーナーがあり、いつもは読まないのに何の気なしに眺めた時に、あらすじの紹介が目に留まったのです。

このときは、これが山岳小説であることすらわかっていませんでした。脱出路を計算に入れた周到な計画って何のことだろうと思いながら読み、ああ、山で遭難した登山家の小説かとわかったくらいです。

まだスマホはない時代でしたので、通勤途中の電車で暇つぶしに読んでみようかと思って、この文庫本を買ってみたのでした。

引きずりこまれるように山の世界へ

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当時、私は20代後半でした。子どもの頃にボーイスカウトでキャンプや山歩き程度のことはしたことがありましたが、ザックを背負って本気の登山といったことには、全くと言っていいほど興味を持っていませんでした。

それがこの小説を読み始めると、現実の山を知り尽くしている新田次郎の描写がすばらしく、行ったことも、見たこともない山の様子を目の前に思い浮かべることができたのです。そして、最後の悲しい結末がわかっていながら、そうならないでほしい、文太郎、山に行ってはだめだ、とひたすら夢中になって読みました。

最後の一行を読み終えたとき、私は涙を流していました。会社の帰りの電車の中でした。おそらく周りの人、とりわけ女子高生たちは、気持ちの悪いサラリーマンだと思ったでしょう。ですが、私自身はまったく逆でした。心の中は無色透明な結晶になっていました。

私は、文太郎が愛した山を自分の目で見に行かなければならない、と考えるようになっていました。

小説の中と現実の加藤文太郎

小説に描かれた登山家の加藤文太郎は、驚異的な登攀能力の持ち主で、単独行で冬山に挑み、時間さえあれば毎週でも山に登る人です。せっかく手に入れた家族を大切に思いながらも、それ以上に友人と山を大事にしたがゆえに、冬の北鎌尾根でその太くて短い生涯を終えてしまったのでした。

彼はつねにリスクを考え、脱出路を頭にいれて行動していたと言われています。単独行であるがゆえに、なおのこと慎重な計画が必要だったのだと思います。でも現実の彼は、本当に慎重な人だったのでしょうか?無理なことはせず、脱出路を常に確認しながら行動するような人だったのでしょうか?

単純な私は、加藤文太郎に触発されて山に登りはじめ、まずは彼をまねることから始めました。山の地図を買い、事前にルートに赤線を入れ、途中で分かれ道があればどこへつながっているのかを確認する。危険を回避するために全神経を使って山を歩くことが、現実のだらけた生活とはかけ離れた、本当に自然の中で生き延びるためのチャレンジだと思い、ワクワクする気持ちでいっぱいでした。

しかし、危機回避をしているはずなのに、現実はそうはいきません。道に迷ったり、飲み水を確保できなかったり、必要以上の荷物を持ってしまい、途中でひざが痛くなり引き返したこともありました。山は予期せぬことの連続でした。

加藤文太郎も、つねに予期せぬことと向き合ってきたはずですし、道なき道を進んでいたことも山行録に残っています。彼も失敗したり、リスクを承知の上で突き進むような人だったはずです。

彼はなぜ単独行というリスクをとったのか

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彼は、人付き合いの下手な人だったと言われています。笑い方が不器用で、嘲笑するような表情をするので、相手はバカにされていると勘違いすることが多かったようです。それが故、彼は周囲になじめず、孤独に過ごすことが多かったのだと思います。

一方で、単独行のリスクは彼もわかっていたはずです。遭難したときに、救援要請ができない。もしパーティであれば仲間が救援要請をして、遅くなったとしてもいつか誰かが助けに来てくれるという希望がありますが、単独では誰も事故を知ることさえありません。

携帯電話が普及した現在であれば、電波さえ届けば自分で連絡することは可能です。GPSで位置を確認してもらうことも可能でしょう。それでも時間との戦いです。そんなとき、孤独に死を待つのはどんな気持ちなのでしょう。連絡したのに救援が来ない、というのは、連絡手段がなく早々に覚悟を決められた昔よりも、もっとつらい気持ちに追い込まれるように思います。

なぜそうまでして山に登ったのか

「そこに山があるからだ」いうジョージ・マロリー(エベレスト挑戦中に遭難したイギリスの登山家)の言葉が有名ですが、彼の理由はもっと奥が深いはずです。「なぜ山がそこにあると、登りたくなるのですか?」という次の質問をする必要があります。

もし加藤文太郎にその質問をしたら、彼はなんと答えたでしょうか。彼はストイックに自身を鍛え上げ、あえて困難な山に立ち向かいました。冒険家のように、限界を超えて、達成感を求めたのだと思います。ですが、それだけが彼を山に駆り立てたわけではないと思います。

彼は孤独でした。山だけが自分の考えや判断で行動できる場所でした。山ではだれも彼を迫害したり、陰険ないじめもありませんでした。自分の居場所として見つけたのが山であり、山では彼は自由でした。自分という人間を確認できる場所だったのだと思います。

まとめ

私は『孤高の人』を読み終えたときに自分の心の中に見つけた無色透明な結晶を、いまでも大切にしています。あの時に感じた、限界を超えた男の生き方、ロマンを大事にしたいと思っています。

なぜ山に登るのか。その問いへの私の答えは、達成感ではなく「自分を見つめなおし、自分に気づくため」です。


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この記事を書いたひと
やまだ しょうきち

近くの山に登って自分の住む街を眺めるのがホッコリタイム。行くたびに違った表情をみせてくれるのが山の魅力。だから何度も行きたくなってしまいます。「山には魔性がある」と感じている今日この頃です。

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