書籍『沈黙の山嶺』いま改めて問う “ひとはなぜ山に登るのか”

エベレスト チベット側 ちょっと休憩
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【推し企画】山歩みちライターと編集部が、自分の好きな登山に関する「推し」映画や本などについて個人的な想いのみで語っていきます!

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『沈黙の山嶺』あらすじ

英国の登山家ジョージ・マロリーは1924年6月8日、アンドリュー・アーヴィンとともにエヴェレストの山頂をめざし最終キャンプを出発したが、頂上付近で目撃されたのを最後に消息を絶った。果たしてマロリーは登頂したのか——。

19世紀の植民地主義が終焉を迎え、大戦へと突き進んで甚大な被害を出した英国。その威信回復の象徴となったのがエヴェレスト初登頂の夢だった。1921~24年の間に3回にわたって行なわれた遠征では、参加した26名の隊員のうち戦争経験者は20名にのぼった。

本書は、血みどろの塹壕戦をからくも生き抜き、世界最高峰の頂をめざして命を懸けたマロリーら元兵士たちの生きざまを通して「時代」に息を吹き込んだ歴史ノンフィクションである。気鋭の人類学者である著者は、未発表の手紙や日記のほか各地に遍在する膨大な資料を渉猟し、執筆に10年をかけて彼らの死生観にまで迫る。

兵士として隊員として、常に死と隣り合わせだった若者たちの「生」を描いた傑作! サミュエル・ジョンソン賞受賞作品。

白水社ホームページより

「そこに山があるから」はだれが言ったのか

未踏峰の山として輝いていた時代のエベレスト。その登攀を前に「なぜ、エベレストに登りたいのか」と問われ、「それがあるから(Because it’s there.)」と答えたのがジョージ・マロリー。

転じて日本語では、「ひとはなぜ山に登るのか」とセットで「そこに山があるから」という受け答えとして記憶しているひとが多いと思うが、それはある意味、そちらの方がひとの心に訴えるものが多分に含まれているからだろう。

そこに至るだけでも、命の危険を伴う標高8848mの頂にひとはなぜ向かったのか。人類として初めての挑戦をしながらも、忽然と雪山に消えたマロリーの生き様を軸に、山へと駆り立てる熱情を膨大な資料をもとに紡いだ傑作である。

当時のエベレストはどんな場所だったのか

物語の舞台は第一次大戦後である。大戦が終わり、英国はその威信をかけて遠征隊を結成、世界最高峰エベレストの人類初登頂をめざしていた。当時のエベレスト登山とは、今でいう “宇宙探索” に近いのかもしれない。

その当時、そもそも標高8000m以上という高所において、ひとの肉体が維持できるのかすら医学的に不明であった時代である。それでも、ひとがその頂に挑戦しえたのは、世界大戦における技術革新があったからである。例えば戦時中の酸素ボンベや高度障害についての研究・開発は、高所登山にも応用され、成果を上げていったのである。

マロリーはその頂に達したのか

2度の失敗を経て3度目の挑戦となった1924年、最終キャンプを出発後、還ることがなかったマロリー(99年に遺体が発見される)は、最終的には山頂に達したのか、否か。

小説『神々の山嶺』(夢枕 漠著、集英社)でも扱われたその謎は、長らく登山界に残ることになったが、時を経て第二次大戦後の53年、ヒラリーとテンジンがその頂を登頂することにより、人類としての挑戦は終わりをみることになる。

今では渋滞ができるほど、年間何百人もの登山者が挑戦する、商業登山の場として注目を集めている。

富士山とエベレストとの共通点

富士山 ご来光
出典:写真AC

話は逸れるが、日本最高峰である富士山(標高3776m)には、年間約20万人以上が訪れ、その質や量こそ違うが、“観光” という観点からいえば両者に共通する点は多いと思う。

以前、富士山頂でご来光に涙する若者に、「(単なる日の出でしかないのに)なぜ、あなたはそこまで感動しているのですか」と無粋にも尋ねてしまい、「ここが山だからです」との返答を受け、「なるほど」と思ったことがある。

マロリーと現代の日本の若者では、多くの点で異なっているが、彼らを突き動かす原動力は、程度の差こそあれ、本質的に同じではないか、とその時感じたことを覚えている。

ひとはなぜ山をめざすのか

“ひとはなぜ山に登るのか”

山を楽しむひとであれば、一度は頭の片隅に思い浮かべたかもしれないこの本質的な問いかけを、本書では上下巻約800頁の紙数を費やして探求する。その手法は多角的であり、かつ客観性があって、頁を繰るごとに、当時の若者たちを突き動かしていた “情熱の源” へと迫ってゆく。

そのひとつの源泉は、世界初の大量殺戮戦となった第一次大戦後の反動であろう。上巻で克明に記される戦争の現実と下巻で描かれる登攀の過程が対照的で、戦争を経た若者を高みへと誘った逃れ難い衝動と、高みへと至る過程で味わった高揚感を克明にあぶり出すことにより “ひとはなぜ山に登るのか” という本源的な問いかけにひとつの答えを与えようとしている。

翻って今の世の中で考えてみると、人類とウィルスの間で繰り広げられる、ある種の “世界大戦” が起きているともいえる。この世界大戦に、ひとつの終わりがみえた時、ひとはまた山に登るのだろうか。その時、そこで、ひとはなにを感じるのだろうか。その答えはまだわからないし、自分でも想像がつかない。

しかし、マロリーが感じたであろう山への抑え難きパッションを、多くのひとが感じ、高みへと誘われるような気がしてならない。

◆『沈黙の山嶺』ウェイド・デイビス著 秋元由紀訳 白水社 2015年

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この記事を書いたひと
山歩みち編集長 木村和也

『山歩みち』編集長、キムカズ。現在新潟在住で、米農家との兼業編集長。著作『親子で山さんぽ』が交通新聞社より発売中。たまに note も書いています。

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